それは、べつに特別な朝ではなかった。
いつもと同じように目が覚めて、いつもと同じように洗面所へ向かった。
水で顔を洗い、ふと鏡を見上げた。
そこにいたのは、50歳目前の自分だった。
目元の皺。白髪まじりの無精髭。
どこか疲れたような、でも妙に落ち着いた目をした男が、こちらを見ていた。
「あ、そうか。もうすぐ50か。」
怒涛のように駆け抜けてきた40代が、静かに幕を閉じようとしている。
トラックに追突され、ぎっくり腰に倒れ、身体のあちこちが悲鳴を上げながらも、なんとかここまで来た。
「不惑」を通り越して、次は「知命」という年らしい。
五十にして天命を知る、と孔子は言った。
でも正直に言えば、天命なんて、まだよくわからない。
ただひとつだけ、わかったことがある。
痛みを知った身体の方が、波がよく見える。
コロナ禍の時もそうだったが、事故のあと、しばらく海に入れない時期があった。
海に想いを馳せるだけの日が続いたこともある。
そういうとき、不思議と波が饒舌になる。「急ぐな」とか、「今日じゃなくていい」とか。
たぶん人生も、そういうものなのだろう。
全力でパドルしていたときには気づかなかった声が、
少し立ち止まったときにやっと聞こえてくる。
50歳は、失うことの年齢かもしれない。
体力、瞬発力、眩しかった何か。
でも同時に、受け取るものの年齢でもあると、最近思う。
波の読み方。
沈黙の使い方。
ひとりでいることの豊かさ。
鏡の前の男は、まだ少し眠そうで、
でもどこか、腹が据わっていた。
50歳。
老いと劣化には、できれば抗い続けたい。
けれど今日くらいは、鏡の向こうの自分に、静かに「よく来た」と言ってやろうと思う。
そんな朝だった。

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